翻訳の正しさとそのコストについて

例の翻訳事件や、友人が訳した本への批判をみていると、どうにも心苦しくなってしまう。こういった雑音は小さな有名税の一種であるが、具体論についても気になったことがあったのでメモをしておく。

まず前提としては、ひとが仕事をする場合、品質とコストは比例関係にある。さらに、量とコストも比例関係にあり、翻訳のようにひとつの仕事のサイズが決まっている場合は、同じコストを投じる場合は品質には自ずから上限がついてしまう。スピードとのトレードオフもある。

その上で、十分と思われる品質を達成するために最低限のコストを投じて仕事を実施する。実際に世間にある外国語のテキストを翻訳するいくつかのケースについて、それを論じていきたいと思う。たとえば英語から日本語など、語族の異なる場合についてだ。

  1. 小説など文学作品

こういった文章が最も難しい。外国語、日本語をどちらも繊細に扱う必要があるため、どちらの言語も同然に理解できないといけないし、文学的な素養、教養が必要になる。著者が表現したかった心理的、あるいは文学的な内容を日本の読者にそのまま投じなければならない。こういったことができるのは基本的には専門の通訳がかなりの時間をかけなければならない。訳者はひとりとしても、編集と校正が何度も通読する以上のコストが必要だろう。

出版物になる前提である以上、エラー率は極めて低いことが期待されるが、文学的にエラーかどうかの判定が難しい場合がある。

  1. 専門書:科学分野の教科書

こういった教科書が日本語で読めることがそもそも特異だが、こういった書籍に文学的な素養は必要ない。科学的な教養と、学術界の文化を理解しておけば、あとは専門的な知識があればよい。しかしながら、基本的にはその分野の専門は大学の助教クラス以上のものが要求される。そして、対象となる読者層もその分野の専門家の卵、または多分野の専門家であるから科学的な素養は期待できる。基本的には、科学的な正しさとわかり易さが重視される。正しさについては、専門家にとっては自明であるから、わかり易さについてだけ推敲が必要になる。

翻訳できなければならない内容も、表現を何度も練り直すといったことは必要ないから、編集や校正、レビューアが何度も繰り返し読む必要はないだろう。必然的に、文学作品よりは翻訳にかかる人数や時間は文学作品よりも少ないだろう。

出版物になり、さらに教育に関わるものであるからエラー率は極めて低いことが期待されるが、読者層が専門家またはその卵であるから実際には許容されていることが多い。科学的にエラーかどうかは判定は比較的容易。

  1. 専門書:工学系の文章、書籍

こちらも同様に、文学的な内容は必要としないし、科学的な素養もそこまで必要とはされない。文学的内容はほとんど必要とされない、内容が伝われば十分である。ここでいう内容とは、工学的な正しさである。この分野では出版物にならない文章も多く、そういったものにはさらにコストをかけられないため、わかり易さを犠牲にすることがある。

教科書は科学書と同様エラー率が極めて低いことが期待される。読者層が専門家である場合が多い。

  1. ビジネス文書

文学的内容も科学的内容もないが、2通りに大分される。会社間の文書であったり、法的な重要性が高いものを訳す場合は誤訳がその金銭的損失になる場合がある。

社内で流通する文章の場合は、まあその組織のカルチャー次第だろう。

  1. 専門書:仕様書など

ビジネス文書と同様。

ここでいう正しさという言葉は、実験と理論双方で検証された科学的事実のことではなく、その科学的なプロセスやプロトコルに則っているかどうかである。

Shibukawa Stations

Twitterみてると「MBAでスペック的に困ってないのは仕事も何もしてないからだろう」と突っ込みたくなりますね。ここを見ているあなたのことではないですよ。

他人を除け者にする人たち

わたしたちは動物である限り、何か他の命を食べて生きなければならないのであるからして、そもそも本質的に他者を除け者にして生きているのである。しかしながら、人間社会に限っていえば他人を除け者にする一方で共同作業、分業、利益分配など互恵もして暮らしているのである。日本語でいうなら「お互い様」という文化である。これで公平性と平等性をあるレベルまで達成することはできる。が、どうしたって完璧にはいかないものである。

これも、お互いにいささかの不平等を認識、共有することで妥協できるものである。このことを分かってない人たちがいる。これは社会で平和に生きている上で最低限の自覚であるはずなのに、である。

[disclaimer] この記事は個人的な怒りに基づいて書かれています。

先日わたしが住んでいるマンションの向かいに新築2階建ての美容室が建設されたのだが、短納期で安い仕事で発注しようとしたらしく、3週間くらい後の開店日が掲示されたが全く間に合う気配がない。そこから毎晩土日もなく深夜まで作業を続けたのである。おそらくだが、毎日深夜作業を継続できたのは、内装や左官など分業が進んでいるため個人の負担は少ないのであろう。

しかしながら、向かいに住んでいる我々の負担はそうではないのである。毎日昼間には騒音がするし、深夜には小さいながらも音がして煌々と灯りがついているのである。開店日が近くなると作業時間がさらに長くなり、午前9時から午前3時まで作業が行われているような状況であった。午前3時を過ぎてもグラインダーで床材を削り続けていたのである。あったからといってどうにもなるわけではないが、更に悪いことに、工事開始前には近隣への挨拶が全くなかった(もしくは、予めこうなることが分かっていたから挨拶せず連絡先を教えなかったのだろうか?)。 実のところ工事を請け負っていた会社は掲示されていたので特定はしている。なにか法的手段をとれればよいのだが、深夜に禁止されている重機など騒音指定されている道具は使っていなかったので、厳密には該当しない。

また開店直前の日曜日には、店の前のガス管を新設補修するらしく道路を開削して工事をしていた。予定では午前9時〜午後6時とあったが、午前9時前から始めたにも関わらず午後8時を過ぎても街灯を頼りに工事をしていた。こうなると、1日で終わる工事ではなかったのでは?本来2日かけてやるべき工事が無理に1日に短縮されたのではないか?という疑念も起きる。この工事の連絡は当日の朝にポストにチラシが入っていた。遅い。

結局、彼らは深夜にも工事作業をして開店の数日前に内装を済ませた。内装が済むと今度は美容室の引っ越しである。美容師たちが前々日、前日と来てやはり深夜まで何か盛り上がって話をしてたし、店の前の道路にまで広がって何か歓談している。夜の23時に。 なんとか開店にこぎつけたのである。ざっと3週間程度深夜作業、土日作業をしていたので昼間稼働時間としては1ヶ月に相当するだろう。彼らは本来必要な工期を1ヶ月短縮し、それだけの費用を合法的に節約したわけだ。そして我々は3週間の平穏な時間を失った。

これは他人の迷惑を顧みないというだけの話だろうか?そうではない。これは、他人からの略奪によって生きている人たちがいるということだ。

23時半の新宿駅中央線ホーム、電車のドアがしまる瞬間に、駆け込み乗車をするために傘を挟んだ人間がいたらしく、駅員が「はい傘を挟まないでくださいねー」といった直後に声色を変えて「電車止めますよ」と言ったら、しばしの沈黙の後に無事に電車は発車した。なかなか溜飲が下がり、深夜の下り電車も悪くないものだなと思うなどした。

なんか、僕の理解と全然違うのだけど。世間一般の教養論は大抵、教養は役に立つとか人間の品格を決めるとかやけに美化されているのだけどそうじゃないだろと思うのですね。

つまり、側面としては2つあって、自分が興味あることを調べていった(ただし直接経験は伴わない)結果知っていることが沢山増えたということ。これはTVゲームで遊んだり、山に登ったりして遊ぶのと同じこと。

もうひとつの側面は、それが人生において役立つかどうかなのだけど、自分が持っている知識項目がN個、経験項目がM個あって、人生の場面場面で行動を起こすのはNとMの中に役立つ該当項目を見つけられるかどうかなのですよ。NもMも大きい方が見つかる確率は高い。人間に与えられた経験値は基本的には人生時間に比例するのでMはそんなに高めることができない(せいぜい数倍)。しかしNは読んだ本の数、みた映画の数、机上で学んだことの数に比例するわけで、それはかなりレバレッジが効く。

この2つの効果のことが教養だと思っている。

ちなみに、知識や情報の獲得効率はざっくりいってその絶対量に比例する( dk ∝ k )なので、教養の獲得をうまく運用すると知識が指数関数的に増えるの。むしろ、これをちゃんとやらないと割と簡単に死ねるよマジで。

ぼくの場合は。

  • 誰得なのかとか面白いかとかを考える
  • 技術的に可能かどうか、手段を考えたり調べたりする
  • できそうならとりあえずそれを試して、本当にできるかどうか検証する
  • できたら、いちど全部すてて周囲を巻き込んで改善する(テストとかドキュメントとかいろいろ)
  • がんばりすぎない

競争力や生産性が上がらない理由が分からないか?

毎週毎週、わたしは新しい理由を発見することができる。今週はクラウドコンピューティングEXPOというイベントだった。このイベントは、商談をするために、日本中のユーザー企業とベンダー企業をお台場のビッグサイトに集めて賑わい商談をしてもらうという場である。会場の様子を写すいくつかの写真がPDFで公開されているが、ここからは本当のことは分からない。

今年は5/14, 15, 16 で開催され、それに参加してきた。会場はスーツ姿の参加者で溢れていたが、一方で参加者とは思えない華美な服装をした女性がチラシやノベルティを必死で通りがかりの人に配ってきた。自社のサービスや製品を宣伝するための手段として、華美で性的に魅力的な女性をわざわざこのイベントのために雇ってきてブースの前に並べるべきではない。これはいくつかの面で害悪だ。

- 大部分の女性からみると不愉快でしかなく、女性がテクノロジーに関わろうとするときの大きな阻害要因である
- そういった女性を目的とする参加者が現れイベントの本来の目的が損なわれる
- 出展者にとって本来は不要なコストがかかる(しかも参加者のアテンションが失われることを恐れてやめられない)

しかも、おそらくは新卒入社1〜3年め程度の若い女性がスーツ姿でウロウロしていた(その年頃の若手はよくこの手のイベントに単独で派遣されて調査するという仕事がある)。これに行かせることはセクシャルハラスメントに該当すると思うのだが、命令を出した上司はいったい何を考えていたのだろうか。

このままでは、理性的な人間ほど絶望して産業から遠ざかっていくことになる。もしくは、こういったPolitically Incorrectなイベントに参加しない理性的な事業者ほど競争上不利になっていく。あらゆることが間違っているこの現状は、どこから手を付けたらよいのだろうか。

自分の頭でしか考えないひとたち

自分の頭で考えられないひとたちはいる。これもまあ問題ではあるが、クリティカル・シンキングのトレーニングを受けてないのだから受ければ済むという話である。遅きに失するということはないし、誰でも初めはそうだからだ。

これまで10年にみたない仕事人生であるが、実はその正反対の人種がいることに気がついた。とてもスマートで頭がよく、自分ひとりで何でもできてしまう。そして巨大なソフトウェアを自分だけで作ってしまう。

往々にして目的指向で、なにかを実現する能力は非常に高い。1を聞いて10を想像して達成してしまう。それに自己承認の欲求がついてプレゼンが上手いとまたひとつ上のステージに上がることができる。歴史を踏まえずにオレオレで「こんなの作ったでしょすげーでしょ見て見てねーねー」となる。もちろんそれで製品やサービスが売れて世界が改善されるならとても素晴らしいことだ。

しかしながら、一人で全てを完成させるのは、あまりに忙しい。人間の手は二本しかないし、脳はひとつしかない。だから、先人の知恵を調べる余裕がないのだろう。ひとりだけで実現した技術の中にある複数の技術的な問題も気付かずに10まで進んでしまう。それをやんわりと聞いても聞く耳を持たない。世界中にそういった情報や先人の知恵は転がっているのだが、論文も書くだけで一部しか読まないし、それを手に入れる方法を知らないのかもしれない。それを他人と共有する単語も知らないし言葉もない。そうやって綱渡りのように目的を達成してしまっては、残念ながら11から先はないのである。

なので、私自身も、何かをやるときは既存のものと何が違うのか、それが今なら成功するのはなぜなのか、チャレンジする前に真剣に考えるようにしている。アカデミックな世界だとフリーハンドなのでかなり難しいが、インダストリアルであればある程度状況を制限できるのでかなり考えやすい。実業に基づいていればなおやりやすい。GoogleやAmazonがあそこまで先を走れるのは実業に基づいているからこそだと思い直したり、既存技術や既存研究、歴史を知ることはとても重要だと再認識した一日であった。

こういったことは、OSSのコードや論文を読み漁るだけでは分からないことだ。コミュニティに顔を出し、自分が知っていることを提供し、相手が知っていることと交換する。教授の昔話を気が済むまで興味を持って聞く。一緒に焼き肉を食べながら論文に書かれていないことを聞き出す。そういう活動をしないで何かを出してもひとりよがりで終わる可能性が非常に高い。

要は壮大な税金の無駄遣いだってことです。